彼は考えに行きづまるといつもこの場所を訪れる。
大きな書店のこのコーナーは彼が心の落ち着きを取り戻すのに最適な場所なのだ。
自己啓発本やビジネス書の並ぶ書棚の前で彼は自分を取り戻すことができる・・いや、できた。
そう、過去形である。
人生はうまくいく。自分は必ず成功する。良いことを考えればよいことが起こる・・いやいや、そんなことはない。
そのことに気づいたのはかなり前のことだ。
こんな精神論ばかりに頼っていてはいけない。もっと実践的なことを学ばなければ・・
そして彼はビジネス書を読み漁った。
マーケティングにマネジメント、セールスとクロージング。消費者の行動心理。失敗しない交渉術。プレゼンテーションの極意・・
知識は増え、特別な力を得た気がした。しかし現実は・・何も変わらない。
そしてまたこうして書棚の前にやってきたのである。
★ ★ ★ ★
書店に並ぶ本のタイトルを眺めながらたたずんでいる一人の男。
彼の名は妻津木悟(ツマヅキサトル)
小さな雑貨店を営む60歳の個人事業主である。
20代は会社勤めをしていたが、職場での人間関係のストレスに耐えきれず、30歳の時に個人事業主として独立。
しかし開業当初に描いていた理想とはほど遠く、妻とふたりで必死に働いても生活はぎりぎりで食べていくのが精一杯だった。
そのうちきっと道は開ける。そう信じ続け、気づけばもう30年が過ぎ去った。
還暦を過ぎた今でも貯蓄はゼロに等しく、未納期間が多いために年金の受給額も極端に少ないことが分かっている。
体力的な衰えも否定できなくなってきた現在、いちばんの心配事は老後の生活資金である。
いったい何がいけなかったのだろう?一生懸命勉強もした。怠けずに必死で働いてきた。それなのに今のこの状況は何なのだ?お金もない。将来の安心もない。何とかしようにも時間はないし・・
彼は努力家で勉強熱心である。その風貌からチャラい印象を持たれがちだが、いたってまじめな人間なのだ。若い頃からずっとそうだった。怠けずに働き、本をたくさん読み、時には自己啓発やビジネスのセミナーにも参加した。
人生はきっとうまくいく。自分は成功する。絶対金持ちになれる・・しかしそんな効果は長く続かない。1ヶ月、1週間、いや、ひと晩眠って目覚めた時、すでに現実に引き戻されていることもあった。
いったいどうしたらいいのだろう?これ以上何を学べば?どんな努力をすれば?自分に足りないものは・・?
彼がその男に出会ったのは、そんなことを考えながら書店の本棚の前で途方に暮れているときだった。背中に大きめのリュックを背負い、丸い黒縁の眼鏡をかけた中年の男である。
すみませんが落語関係の本はどのあたりにありますかな?
えっ?あー、そういうのはたぶん趣味の本のコーナーだと思いますけど。
趣味の本のコーナーってどのあたりですかな?
あー、たぶんあっちのほうじゃないですかね。よくわかりませんけど。
よくわからないって・・ちょっと不親切じゃありませんかな。
はぁっ?あのね。そういうのは店員さんに聞いた方がいいんじゃないですか?
えっ?ここの店員さんじゃないんですか?これはこれは失礼いたしました。そのエプロンをされているのでてっきり・・
えっ?あれ?あー、エプロン外すの忘れてた・・あ、実は私この近くでお店をやってまして・・ついそのまま来てしまいました。これじゃ勘違いされても仕方無いですね。
いやいや私の早とちりで失礼しました。なんか深刻な感じで書棚を眺めていたので本の配置とかを考えている店員さんかと・・
え?私そんなに深刻そうに見えましたか?
えぇまあ・・しかしどなたにも悩みの一つや二つはありますからな。ほら、ここにも悩みを解決してくれそうなタイトルの本が並んでます。
そうそう、そうなんです。こうやってタイトルを見ているだけで何かヒントをもらえるような気がします。
そうですな。しかし考えてみると、この手の本が次々と出版されるということは、それほど効き目がないのかもしれませんな。問題が解決したらもう必要ないわけですから。
そう言われると、確かにそうかもしれません。読んでるととどんどん元気が出てくる本とか、すごい極意を学んだと思える本とか、いろいろ読みましたけど・・、結局は人生にぜんぜん活かせてないというかなんというか・・
フワッとした知識という感じですかな?
まさにそれです!フワッと元気になったり、フワッとうまくいきそうに思えたり。でも元気は長続きしないし店の経営もかなり厳しいし・・
あぁそういえば、どんなお店をやられてるんですかな?
小さな雑貨店なんですよ。インテリア小物とかしゃれた日用品とかですけど、ちょっとしたカフェスペースも併設していて簡単な食事もできるんです。
素敵なお仕事ですな。もう長いんですかな?
30歳の時に脱サラして始めたので、もう30年になりますね。
それはご立派ですな。30年続けられる商売はそうはありません。
いえいえ、夫婦でギリギリ何とか食べていくのが精一杯です。こんなはずじゃなかったんですけどね。
始めたころは夢を膨らませてました。商売を大きくして、いずれは人に任せてのんびりと・・なんてね。
以前は人を雇ってましたが、人件費もあまりかけられなくて、今は妻とふたりで働き詰めです。
なるほど、なかなか厳しいようですな。まさに体が資本という感じですな。
そうなんです。この歳になってくるとそれが不安の種なんです。自営業ですから、もしも病気やけがで仕事ができなくなったら終わりです。いつも崖っぷちを歩いている気分です。
自営業者のための休業補償付きの保険とかもありますが。
ええ、なんとなく聞いたことはあります。ちゃんと調べてませんが、掛け金がけっこう高いらしくて、とても払える状況ではなくて。万が一に備えて夫婦で入っている医療保険だけでもかなりの出費ですし。
健康保険の高額療養費制度がありますから、医療保険にはあまりお金をかけなくてもいいかと・・
何ですか?その高額なんとかって?
簡単にいうと、所得があまり高くなければ1ヶ月の医療費の上限が数万円程度になるという制度です。
へー、知らなかった。
条件さえ満たせば年金から支払われる給付金もありますが。
へー、それも知らなかった・・。でも・・実はその年金もあまり払ってなくて・・
払ってない?それは免除ということですか?それとも未納?
免除・・というのは?よくわかりません。
なるほど・・、免除ではなく未納ということになると、年金の受給額が心配になりますが・・。
それです!やはりその話になりますね。年金事務所から届いた通知の金額を見たとき、正直言って目を疑いました。とても生きてはいけない金額です。
でしょうな。会社員時代の厚生年金があるようなので、まぁ、ゼロということは無いでしょうが、自営業の30年間にあまり払っていないとなると・・。
こんなことなら頑張って納めておけばよかったと思います。でも今さらどうにもなりません。後悔先に立たずです。
えぇ、たしかに時は戻せませんが、年金の受給額を今から増やす方法はいくつかあります。
えっ?年金が増やせる?本当ですか?
ひとつは受給の繰り下げです。
ハマヲはリュックの中のファイルからA4サイズの紙を取り出した。
《年金の繰り下げ受給》
年金をもらい始める年齢を遅らせれば遅らせるほど金額が増える制度
増える金額は1ヶ月遅らせるごとに0.7%。つまり・・
1年遅らせて66歳からもらい始めると、0.7%×12か月で8.4%増える。
5年遅らせて70歳からもらい始めると、0.7%×60か月で42%増える。
10年遅らせて75歳からもらい始めると、0.7%×120か月で84%増える。
10年遅らせると2倍近くになり、その額の年金を一生涯もらえる。
これはなかなか凄いですな。受給の開始を10年遅らせれば84%増えます。つまり2倍近くになるわけです。
知らなかった。
年金事務所からの通知にも書いてあるはずですが・・
あー、金額だけ見てあまりのショックに引き出しにしまっちゃいました。年金があてにならないなら、とにかく頑張ってお店で稼ぐしかないわけですしね。
なるほど、どうやら今のあなたは「フワッと沼」にはまってしまっているようですな。
フワッと沼・・ですか?
現実から目を背けたい気持ちは分かりますが、まずはご自分の置かれている状況を正しく把握することが必要です。必要なのはフワッとではなくカチッとした知識ということですな。
ん~・・確かにあなたの言うとおりかもしれません。自分なりにいろいろ勉強してきたつもりでしたけど、同じところをグルグル回ってた気もします。
自己啓発本もビジネス書も決して意味がないわけではありません。カチッとした知識と合わせれば、これからの人生に役立つものになるはずです。
なるほど・・、あなたの言うことにはとても説得力がある。あなたはいったい何者なんですか?宗教家?哲学者?メンタリスト?もしかして・・神?
ハマヲはリュックの外ポケットから名刺入れを取り出して1枚差し出した。
しばはまFP事務所
代表・ファイナンシャルプランナー
芝ハマヲ
電話:000-000-0000 メール:xxxxxx@gmail.com
申し遅れました。私はこういうものです。残念ながら神ではありません。
ファイナンシャル・・あーなるほど、保険屋さんならいろいろと詳しいはずですよね。・・あ、もしかしてこれセールスですか?
いえいえ、違います。確かに保険も扱いますが、私の場合はもっと広くお金全般のご相談にのるのが仕事です。お金はどなたの人生にも大きくかかわるものですから、精神的なところも大事になるわけです。
なるほど・・、なんだかすごい方に思えてきました。相談したいことがたくさんありますけど、お仕事となると相談料も結構なものなんでしょうね。
まあ、そうですな。しかしここでお会いしたのも何かのご縁かと思いますので・・どうでしょう、これに参加していただければご相談は無料ということにできますが。
ハマヲはファイルから別の用紙を取り出した。
【極秘プロジェクト・メンバー募集中!】
人生100年時代!あなたの人生はまだまだこれから!
さあ、お金の悩みを解決して人生大逆転といきましょう!
有能なファイナンシャルプランナーがあなたを全力で応援します!
《応募条件》
●年齢:55歳~65歳(あくまでも目安です・応相談)
●まじめで勤勉な方
●人生が思うようにいってない方
●これからの生活に不安を感じている方
●お金さえあれば・・と思っている方ご応募お待ちしております!
詳細は下記までお問い合わせください。
しばはまFP事務所
電話:000-000-0000 メール:xxxxxx@gmail.com
・・こ、これは・・、なんだかあなたの信頼度がいっきに下がりましたね。このチラシ、犯罪の匂いがプンプンじゃないですか。そもそも極秘って・・
やはりそう思われますかな?これ、かなり評判悪いんです。作り直した方がよさそうですな。
そのようですね・・あ、いけない。もうお店に戻らないと・・妻に𠮟られる。
それは急いだほうがいい。さっきの話、考えてみてください。チラシには問題があるようですが、決して怪しいプロジェクトではありませんので。
そうですね。チラシはかなり怪しいですが、あなたはなんとなく信用できそうですから・・妻にも相談してみます。
よろしかったら奥様もご一緒に・・連絡お待ちしてます。
サトルは店への道を急ぎながら、年金事務所からの通知をよく見なおしてみようと考えていた。
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