彼はいま直面している決断を前に答えを出せずに迷いの中にいる。
考えてみたら、もう長いあいだ大事なことを最後まで自分の考えで決めることなど無かった。
彼はそのことを悔しく思ってはきたが、仮にその決定権を自分が持っていたとして、果たしてその責任に耐えられただろうか。
彼にだってそんな自信はない。
そんな彼が今、まさに最終決定を迫られている。
『担々麺にするか辛いネギがのった味噌ラーメンにするか・・』
いやいや、そんな話ではない。
そんな迷いならどんなによいだろう。
良くも悪くも、最後の最後で迷ったら誰かが決めてくれるというそんな状態に慣れてしまった彼は今、決められずにいる。
どの道を選ぶのがベストなのかを。彼自身のために、そして家族のために。
★ ★ ★ ★
大きな川にかかる橋の上からボンヤリと流れを見つめるひとりの男。
彼の名は長居勤一(ナガイキンイチ)
あと1年で60歳の定年を迎えるごく普通の会社員である。
一度の転職をへて現在の会社に勤めて35年。家族は妻と長男長女。長男はすでに社会に出て一人暮らしをしているので、現在は妻と大学二年生の長女との3人暮らしである。
30歳の時に建てた自宅のローン完済まではあと数年。退職金を返済に当てれば一気に完済も可能だが、そろそろ必要になるリフォームの費用や娘の学費を考えると、退職金の使い方にも慎重にならなければならない。
そんな状況の中、今一番の悩みは間もなく迎える定年後の働き方だ。
いま勤めている会社で再雇用してもらうことできるけど、給与がかなり減るのは目に見えている。とはいえこの歳で新しい会社に再就職するというのも・・なんだかすごく大変そうだなー。
定年退職が視野に入ってきた数年前からその後の働き方についてはずっと考えてきた。しかしまだ時間はあるし・・という感じで先送りし、気づけば定年まであと一年たらずとなってしまった。
そして今、通勤帰りの橋の上から川面を眺めながら考えているのである。
去年再雇用になった先輩の話では給料が半分近くまで下がったらしい。住宅ローンもまだ残ってるし、娘はまだ大学生だから、それは困るな―。
かといって他の会社を探すのもなー・・この歳だし・・特別な技術もないし・・そもそも高い給料もらえる保証はないし・・また人間関係作ったりとか考えたら気が重いし・・。
そこへひとりの男が通りかかる。ちょっと太めの体を揺さぶりながら小走りで・・と言うよりほぼ歩いている。背中に大きめのリュックを背負い、耳には時代遅れのコード付きイヤホン。丸い黒縁の眼鏡をかけた中年の男である。
彼は橋の上から川を見ているキンイチに気づくと、イヤホンを外し慌てて駆け寄った。
お若いの!はやまっちゃいけねー、死んでハナミが咲くものか!
なんですかあなた?びっくりさせないでください!落ちたらどうするんだ!
えっ?あー、これはどうも失礼!深刻そうな顔で下のほうを見つめてるからてっきり・・
はーっ?私は死んだりしませんよ。川を見てる人間がみんな飛び込んでたら大騒ぎでしょ。そんなの阪神が優勝した時くらいですよ。・・それに今あなた、「お若いの」って言ってましたけど、私はもうすぐ還暦ですから。
あー・・そう言われればそうですね、あなたはちっとも若くない・・いや実はね、今ずっと「文七元結」を聴いてまして。
いやいや、落語とかよくわからないですね。ジュゲムジュゲム・・みたいなやつですよね。
あー、あの話もなかなか良くできてますな。単なるバカ親の面白い話と誤解してる人も多いようですが、あれは子に対する親の深い愛情がテーマなんです。そもそもどうしてあんな長い名前を・・
ちょっとストップ!落語の話はともかく、とにかく私は飛び降りたりしませんよ。そりゃ悩みのひとつやふたつはありますけど、死ぬほどのことじゃない。完全にあなたの思い違いですよ。
これはたいへん失礼しましたな。私はてっきり・・。
まさかあなた、川を見てる人間に片っ端から声をかけてるわけじゃないでしょうね。
もちろんそんなことありません。ただ・・深刻な悩みを抱えている人は何となくわかるんです。職業柄というか何というか・・。
職業柄?あなたはたはいったい何者なんです?
ハマヲはリュックの外ポケットから名刺入れを取り出して1枚差し出した。
申し遅れました。私はこういうものです。
しばはまFP事務所
代表・ファイナンシャルプランナー
芝ハマヲ
電話:000-000-0000 メール:xxxxxx@gmail.com
ファイナンシャル・・あー知ってますよ、保険屋さんですよね。
んー、まあ保険なんかも関係ありますが他にもいろいろと。お金に関することならなんでも相談にのるのが私の仕事です。
へー、何でも?・・あ、分かった!これ詐欺でしょ。困った人を見つけて助けるふりして騙したりして・・そう、人助け詐欺。
人聞きの悪いこと言わんでください。私がそんな悪人に見えますか?まぁ勘違いして驚かせてしまった私が悪いのは確かですが・・ほんとに怪しいものではないのです。
いやいや、詐欺というのは冗談ですよ。たしかにあなたは悪い人には見えない。
それはよかった・・とにかく驚かせてしまって申し訳ない。
べつにもういいですよ。誤解が解けたなら。でも・・そんなに深刻そうに見えたんですか?私。
ええ、まぁそうですな・・あ、どうでしょう、お詫びのシルシに何かお困りのことがあれば相談に乗りますが。もちろん無料で。
無料?・・あ、もしかしてあなた、あのドーンの人ですか?「決してお代はいただきません」っていう・・
やれやれ、私は喪黒福造でもありません。体型はややそちら寄りですが・・。
はは、冗談ですよ。私の悩みですか・・でもあなたに相談したところで、どうにかなるとは思いませんが。
そうかもしれませんが、誰かに話すだけで少し気が楽になることもありますからな。
まぁたしかに・・。今の私の一番の悩みは定年退職のことです。
キンイチは定年退職後の働き方で悩んでいる現在の状況を打ち明けた。
でもこんなことはあなたの専門外ですよね。
いやいや何をおっしゃる。定年退職はまさに私の専門ど真ん中です。
え?そうなんですか?
ファイナンシャルプランナーは、言わばお金の専門家です。あなたが悩んでいるのは退職後の働き方とのことですが、よーく考えてみてください。それは結局はお金の問題ではないですか?
んー、確かにそうです。お金のことを考えなければ、それほど悩む事ではないような気がしますから。
でしょうな。つまり定年退職をめぐる問題のほとんどはお金の問題なのです。
定年退職はお金に大きく関係する→多くの人はお金の問題で悩んでいる→だからあなたは定年退職のことでで悩んでいる。
簡単な三段論法ですな。
なるほど・・なんか説得力がありますね。
ハマヲはリュックの中のファイルからA4サイズの紙を取り出した。
これは定年退職にまつわるお金の話をまとめたものです。
《定年退職に関係するお金の問題》一覧
⚫︎再雇用で収入はどれくらい減る?
⚫︎収入が減ったときにもらえる給付金とは?
⚫︎定年退職でも失業保険はもらえる?
⚫︎再就職した時に雇用保険からもらえる給付金とは?
⚫︎65歳を境に失業保険はどう変わる?
⚫︎定年退職後の健康保険料の3つの選択肢とは?
⚫︎退職金にはどれくらいの税金がかかる?
⚫︎退職金の資産運用でやってはいけないことは?
ざっと考えただけでもこのくらいの項目があるのです。さらに細かく見るともっと多くなるわけですわ。
キンイチは感心してその内容に真剣に目を通した。
これは驚きました。再雇用で給料がかなり下がることは知ってましたけど、給付金のことなんてぜんぜん。それに退職金の使い道はあれこれ悩んでいましたが、税金のことは考えたこともなかった。
定年退職では失業保険はもらえないと思ている人も多い。ましてやその他の給付金などほとんど知らないのです。
たしかに・・。
定年で引退しないなら、働き続ける以外に道はないと思い込んでいましたから。失業保険がもらえるなら、その間にじっくり次の職場を探すというのもアリということですね。
はい。選択肢は意外と多いのです。そしてその選択に必要なのは、まずいろいろなことを知ることなのです。
なるほど・・。あなたがお金の専門家だというのもまんざら嘘ではないようですね。
信じていただけて何よりですな。で、つまりあなたの今一番の悩みは定年退職後の働き方ですな。
えぇ、悩んでいるのは、再雇用と再就職のどちらが良いか?ということだったんですが・・今の話を聞いて悩みがドッと増えた感じです。失業保険とか給付金とか税金とか、考えなきゃならないことが一気に増えた気がして。
そうですな。収入を得る方法や社会保障の制度、税金をはじめとしたさまざまなルール。それから理想の働き方や生活のスタイルなど、実に多くの要素を考慮したうえで総合的に判断する必要があるのです。
あー、なんだかとても難しそうだ。いろいろと調べるのも大変そうだし・・
こう考えてはいかがでしょう。定年を機にあなたは旅に出るのです。理想の生き方を求めて未知の世界に挑む冒険の旅です。
冒険?私はもう還暦ですよ、この歳で冒険なんて・・。これからはただ平穏に暮らせればと・・
平穏ですか・・今は人生100年時代です。まだまだ長いこれからの時間を平穏に暮らせる自信がありますか?もしそうなら今あなたはこんなに悩んではいないはずですが。
・・たしかに。あれやこれや不安なことばかりです。でもいきなり冒険の旅といわれても、いったい私はどうすれば?
旅には必要な装備というものがあります。この場合の装備とはズバリ知識です。まずは知ることからすべてが始まるのです。
知識ですか・・それは分かりますが何から始めればいいのか・・
あ、そういえばさっき無料で相談にのるとか言ってましたよね。こうなったのはそもそもあなたのせいだし・私の定年退職にまつわる悩み、全部解決してもらいましょうか。
それは言いがかりというものでは・・・
あー、じゃさっきのは嘘だったんですね。やっぱりあなたはサ・ギ・シなんだ。
まいりましたな・・まぁでも仕方ありません。乗りかかった船ということで無料で相談に乗りましょう。ただし、条件がひとつあるのですが。
ハマヲはファイルから別の用紙を取り出した。
【極秘プロジェクト・メンバー募集中!】
人生100年時代!あなたの人生はまだまだこれから!
さあ、お金の悩みを解決して人生大逆転といきましょう!
有能なファイナンシャルプランナーがあなたを全力で応援します!
《応募条件》
●年齢:55歳~65歳(あくまでも目安です・応相談)
●まじめで勤勉な方
●人生が思うようにいってない方
●これからの生活に不安を感じている方
●お金さえあれば・・と思っている方ご応募お待ちしております!
詳細は下記までお問い合わせください。
しばはまFP事務所
電話:000-000-0000 メール:xxxxxx@gmail.com
実は私いま大きなプロジェクトを構想中でして、メンバーを集めているところなんですわ。ぜひあなたにそのメンバーに加わってもらいたい。
怪しい!
怪しすぎますよこれは。典型的な詐欺広告じゃないですか。
こんなので人が集まると思ってるんですか?
そうですか?でも詐欺じゃありませんからご安心を。決して悪いことを企てているわけではありませんし、メンバーといっても特に任務も責任もありません。もちろん会費なんか要りません。
ますます怪しいですね・・どういうことですか?そもそも極秘プロジェクト・・って?
いや~、実は極秘というわけでもないんです。この方がインパクトがあると思って・・。
やれやれ、そのインパクトは逆効果でしょうね。いったいそのプロジェクトの目的はなんなんですか?
はい、それについては長いお話になります・・、あっ!いけない!私これから約束がありまして、それで急いでいたんでした。どうでしょう?詳しい話は明日にでも私の事務所でじっくりと、ということでは?
分かりました。では明日、連絡を入れてから事務所へ伺います。あ、でもまさか事務所に入った途端に怖いお兄さんに囲まれて・・なんてことはないでしょうね。
まさか。でもタイミングが合えばご紹介したい人がいます。その方もプロジェクトのメンバーなんです。怖いお兄さんではなくて素敵なご婦人ですからご安心を。
素敵なご婦人って、それはそれで怪しい感じが・・まあいいでしょう。明日ご連絡します。
では明日あらためて・・しかしこれは、あなたと私の運命的な出会いになりそうですな。あの身投げしようとした文七と彼を助けた左官職人の長兵衛も結果的には生涯の付き合いになりましたからな。そもそも文七がなぜ身投げをしようとしたかというと・・
あの・・急いでいるのでは?落語の話もまた今度伺いますから。
はっ!そうでした。ではまた、御免!
あわてて走り去るハマヲの後姿を見送り、キンイチは帰路についた。橋の上に吹く風が心なしか清々しく感じられた。
次回・第2話「終わりなき借金哀歌」につづく
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