彼は漠然とした不安の中にいる。
収入は高く、妻と子供たち、そして愛犬との高級マンションでの暮らしは、他人から見れば羨ましい限りのものである。
そんな彼が抱える不安の原因。それには彼自身も気が付いている。気が付いているのにどうすることもできず過ぎていく日々。それがさらに不安を増大させているのだろう。
日曜日の午後、犬の散歩の途中で立ち寄った公園のベンチに座り、彼は考えていた。
何とかしなければ・・
★ ★ ★ ★
小さな子供を遊ばせている若い夫婦、シートを敷いて寝転ぶカップル・・穏やかな天気のもと、平和そのものというような風景を眺めながら物思いにふけるひとりの男。
彼の名は多久保険太郎(オオクボケンタロウ)
規模は小さいが業界では有望視されている企業の役員である。
それまで勤務していた会社を40歳で退職し、友人が立ち上げたベンチャー企業に参加。58歳の現在まで会社の中心的な役割を担い、昨年から取締役に就いている。
結婚が比較的遅かったため大学生の長男を頭に3人の子供がおり、末の次男はまだ中学1年生。
会社の経営状態は悪くはなく収入は比較的高いが、会社役員という立場上安定性に欠けるため、将来に漠然とした不安を抱えている。
そんな彼の悩みは、高収入にもかかわらず思うように将来に向けての蓄えができていないこと。
そしてその解決には家計の見直しが必要だと分かりつつも、それが実行できないことである。
会社は順調だし、報酬も決して悪くはない。とりあえず生活に困るようなことはないのに、この不安な気持ちは何なんだろう・・。
いわゆる平均年収よりだいぶ高い報酬を得ている。とはいえ、3人の子供に必要な教育を受けさせ、生活を維持してゆくことを考えると、決して安心できる状況ではないようだ。
会社役員という立場であり、雇用保険などの面では極めて不安な状況である。
会社役員といえば聞こえはいいけど、いつ何があるかわからない。ある程度の蓄えはあるけど子供もまだこれからお金がかかるし・・
収入は高いが家計には余裕があるわけではない。教育費やその先の老後を考えると決して安心はできないのだ。
少子高齢化で社会保障も先細り・・みたいなニュースも多いし、貯蓄と併せて投資もするべきだって言われてるからなぁ・・。前から気になってはいるんだけど、どうしてもそこにまわせるお金がない。けっこう稼いでる方だと思うんだけど・・。
そんな彼の前をひとりの男が通りかかる。背中に大きめのリュックを背負い、丸い黒縁の眼鏡をかけた小太りの中年男である。
彼はケンタロウの足元に座っている犬を見て驚いたように声をかけた。
モモちゃん?モモちゃんではないか?
はあっ?何ですかあなた?モモちゃん・・?
あっ!これは失礼しました・・むかし飼っていたうちのモモちゃんに似ていたもので。
はぁ、そうですか、でもびっくりするじゃないですか、急に大きな声で。
本当に申し訳ない・・、なんとお詫びをしてよいやら・・
別にもういいですよ。びっくりしただけなんで。・・それで、そんなに似てるんですか?あなたが飼っていたワンちゃんに。
ワンちゃん?あーうちの子は猫なんですが・・。
はいっ?え?猫なんですか?
はい、のら猫だと思うんですが、いつの間にかうちに居着いてしまって・・
あっ、もういいです、何でも。どちらにしてももう大丈夫ですから。
あ、私何か変なこと言いましたかな?実はよく不審な人間と思われるようでして・・
でしょうね。不審人物とまでは思いませんが、まあなかなか個性的なお方のようで・
やはりそうですか・・ところで隣よろしいですかな?ちょっと歩き疲れてしまって。
・・そういうところだと思いますよ、怪しまれる原因は。まあ、どうぞ。あなたみたいな人と話すのもちょっと面白そうですから。
しかしのどかな風景ですな。ここでこうしていると平和な気分になるじゃありませんか。
そうですねぇ・・ところが私はそうでもないんです。それどころかむしろ逆になんだか焦った気持ちになります。
はあ、それはまたどうしてですかな?
だってみんな悩みもなくのんきに生きているようじゃないですか。なんだか自分だけがこんな不安を抱えてモヤモヤしているようで・・
なるほど・・まあ実際にはそれぞれ悩みや何かはあるとは思いますが、あなたは相当大きな悩みをお持ちのようですな。お仕事がうまくいってないとか?
いえ、仕事は順調な方だと思います。
ではご家庭のほうで何か・・ご病気の方がいらっしゃるとか?家族の関係があまりよくないとか?
いえ、病人はいませんし、妻とも子供たちともうまくいっているほうだと・・。
そうですか・・よくわかりませんな。人の悩みのほとんどはお金か健康か人間関係のはずなんですが。私も仕事柄いろんな方の相談に乗りますが、たいていはそのどれかでして。
仕事柄?というとあなたは?
ハマヲはリュックの外ポケットから名刺入れを取り出して1枚差し出した。
申し遅れました。私はこういうものです。
しばはまFP事務所
代表・ファイナンシャルプランナー
芝ハマヲ
電話:000-000-0000 メール:xxxxxx@gmail.com
あー、エフピーさんでしたか。私エフピーの知り合いけっこう多いんです・・あ、これ保険の営業だったら無駄ですよ。保険にはもう十分すぎるくらい入ってますから。
いやいや営業なんかではないです。それに私、保険はあまり扱わないので。
えっ?保険扱わないって・・あなたエフピーでしょ。エフピーって保険屋さんのことですよね。
そんな風に誤解されている方は多いようですな。しかし本来エフピーの仕事はもっと幅の広いものなのです。税金や不動産、相続の問題なども扱います。ただしその分野に関してはあくまでも一般的な説明をするだけで、具体的なことはそれぞれ専門の資格を持った方につなぐ役割までですが。
そうなんですね、知りませんでした。私の知っているエフピーはみんな保険会社の方なんで。
保険の販売がエフピーの代表的な仕事であるのは事実ですな。そしてもうひとつ代表的なのがライフプランニングです。
ライフプランニング?
簡単にいえば家計の資金計画とその管理ですな。収入と支出を基本として、それに大きくかかわる住宅や車のローン、そして教育資金。税金や社会保障制度も理解してもらいながら、長期間にわたってお金にかかわるアドバイスを行います。
これは驚きました。エフピーのお仕事ってそんなに幅が広いんですね。たしかに私の知ってる保険屋さんも子供の将来のことは盛んに話してました。私にもしものことがあったら妻と子供の生活費でこれくらいとか、子供が大学を卒業するまでの学費はいくらとか・・、聞いてるうちにどんどん不安になってかなりたくさんの保険に入ってますね。
なるほど。たしかに保険というのはとてもよくできた制度です。人類の偉大な発明といってもいいくらいです。しかし・・不安のあまりよく考えずにたくさんの保険に入るのはどうかと思いますな。
えっ?でも保険屋さんが私と家族の将来のリスクを考えて提案してくれたわけですから、やはり必要なものなんですよね・・まさか私が騙されてるとでも?
いえいえ、そうではありません。保険屋さんは嘘はつきません。そんなことをしたら大問題ですから。ただ・・あなたにあえて伝えていないこともあるのかと。
伝えていないこと・・どういう意味ですか?
ハマヲはリュックの中のファイルからA4サイズの紙を取り出した。
【保険に加入する前に知っておきたいこと】
1,遺族年金
国民年金または厚生年金保険の被保険者が亡くなった際に、遺族が受け取ることのできる年金。
遺族基礎年金と遺族厚生年金があり、働き方や家族構成により支給条件や金額が大きく変わる。2,団体信用生命保険(団信)
住宅ローン申し込み時に必ず契約する保険。
債務者が返済期間中に死亡したり高度障害になった場合、その保険金でローンが完済される。※これらの条件を確認することで、一般の生命保険の保証額を考える際の参考になる。
3,傷病手当金
会社員や公務員が病気やケガで働けなくなった場合、給与の約3分の2の金額が公的健康保険から支給される。(最長1年6か月)4,高額療養費制度
医療費の1ヶ月あたりの自己負担額が一定の金額を超えた場合、超えた分は公的健康保険から支給される。※これらの条件を確認することで、必要な医療保険の保証額を考える際の参考になる。
私の経験上、こういうことについて詳しく説明してくれる保険屋さんはあまり多くはないかと。
たしかにおっしゃる通りですね。今のお話、保険屋さんからはたぶん聞いたことがありません。
でしたら一度、保険の内容を見直すことも必要かもしれませんな。不必要な保険料を長年払い続けている人はとても多いのです。無駄な出費を減らすことは経済状況に関わらず意味のあることですから。
なるほど、その通りですね。ところで他に無駄な出費にはどんなものがあるんですか?よく聞く話で、電気をこまめに消すとか、水道の水を節約するとか・・
確かにそういうお話はよく聞きますが、その種のことはあまりお勧めできません。
えっ?どうしてですか?
もちろん意味がないとは言いませんが、そこに意識を集中しすぎると生活がすさんでしまいます。その割に節約効果はそれほど期待できません。まずやるべきことは本当に無駄な出費が何かを考えることです。
本当に無駄なものか・・
代表的なものとしては、通信費ですな。ネット回線とか携帯のプランとかは、同じサービスで価格の安いものがあるはずです。それからほとんど見ないネットのサブスクとか。つまり、出費を抑えても生活レベルが下がらないものというのがポイントです。
なるほど、いろいろ心当たりはありますね。・・あの、さっき言っていたライフプランニングでしたっけ?それってかなり費用がかかるものなんですか?
相談するFPによっていろいろだと思いますが・・あ、どうでしょう?ここでお会いしたのもご縁かと思いますので、このプロジェクトに参加していただければ私の相談料は無料にできるのですが。
ハマヲはファイルから別の用紙を取り出した。
【極秘プロジェクト・メンバー募集中!】
人生100年時代!あなたの人生はまだまだこれから!
さあ、お金の悩みを解決して人生大逆転といきましょう!
有能なファイナンシャルプランナーがあなたを全力で応援します!
《応募条件》
●年齢:55歳~65歳(あくまでも目安です・応相談)
●まじめで勤勉な方
●人生が思うようにいってない方
●これからの生活に不安を感じている方
●お金さえあれば・・と思っている方ご応募お待ちしております!
詳細は下記までお問い合わせください。
しばはまFP事務所
電話:000-000-0000 メール:xxxxxx@gmail.com
んーん・・あなたに抱いていた信頼感が一気に吹き飛びました。このチラシは人に見せない方がいいですよ。
あーやはり。このチラシ早く直さなければと思いつつ、つい先延ばしになってまして。
一刻も早くそうした方がいいですね。でも気持ちはわかります。私も家計の見直しをしなければと思いながら先延ばしで。
このチラシの怪しさはご勘弁願って、まあ考えてみてください。このモモちゃん・・あ、違う。ワンちゃんの幸せのためにも。
ハマヲはケンタロウの犬の頭を撫でた。
この子はけっこう人を見る目があるんです。初めて会ったのにこんなになついているところを見ると、どうやらあなたは悪人ではなさそうですね。
それは嬉しいお言葉ですな。ではご連絡をお待ちしています。
そう言って去っていくハマヲのうしろ姿を見送りながら、ケンタロウは曇り空が晴れていくような感覚をおぼえた。気がつくと足元の愛犬も同じ視線をおくっている。公園の人たちのことを少し穏やかな気持ちで見ることができた。
次回・第5話 「専業主婦59歳の応援歌」につづく
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